
第0章 「あなたは、自分のことをどれだけ理解していますか?」
私はかつて、高校で英語を教えていた元教員です。13年間教壇に立ち、公務員として安定した道を歩いていました。でもあるとき、ふと自分が発した言葉が、自分自身に返ってくる瞬間がありました。
「人生は100年ある。自分に合った働き方を見つけなきゃ、50年苦しむことになるよ」
それを生徒に語りながら、気づいてしまったのです。
――それは、自分にこそ必要な言葉だった。
その頃、AIの進化にも圧倒されていました。
「このまま教員を続けても、AIの方が早く、正確に教えられる時代が来る」
さらに、妻の病気という出来事も、私の背中を強く押しました。
そして退職を決意し、13年の教員人生に終止符を打つことになったのです。
でも、勢いで退職したため、すぐに今の道が見えたわけではありません。
最初の半年は、迷いと焦りの連続でした。
迷走の半年
何か新しいことを始めなければ――。
そんな焦燥感に駆られ、スタートアップのイベントに顔を出したり、ビジネス書や哲学書などあらゆるジャンルの本を読み漁ったり、ドローンの免許を取ってみたり。
朝起きても明確な目的がなく、夜になっても疲労感だけが残る日々。
何をすればいいのかわからず、ただ時間だけが過ぎ、貯金だけが目減りしていく。
気づけば半年が過ぎていて、それでも何一つ成果は出ず。
「このままでは何者にもなれず、ただ歳をとるだけだ」
そう思ったとき、ようやく一つの選択肢に絞り込む覚悟ができました。
AIの力を使って、何かを創ろう。
それが、私の長い開発の始まりでした。
でも、そもそもなぜ私は“こんなにも迷う人間”になったのか。その原点は高校時代にあります。
第1章 高校1年生を、2回やった
高校を辞めたのは、自暴自棄だったからです。
入学した高校は、廊下をバイクや自転車が走るような荒れた環境。
授業は成立せず、先生たちも諦めムード。
そんな中で私は毎日を「何もない時間」として過ごしていました。
勉強も学校も、そして自分のことも嫌いでした。
何か色々と嫌になって、ただ逃げるように退学しました。
周囲の目なんて気にしていませんでした。どうでもよかったんです。
不良たちもどんどん退学し、40人だったクラスは25人くらいまで減っていたタイミグでの退学。
周りからはその退学者と同じ括りで見なされていたかもしれません。
なんだかんだあって数か月後、別の高校を受験し直して、もう一度高校1年をやることになりました。
恥ずかしさもプライドもありませんでした。
ただ、「なんとなくこのままでは駄目だと思う」――それだけでした。
でも、1年余分に学んだのに、勉強嫌いは直らず、合格したのは偏差値30台の大学でした。
努力は実らず、残ったのは強い劣等感だけ。
大学でも勉強に身が入らず、成績はいつもギリギリ。
結局、勉強が嫌いで苦手なまま社会に出ることになりました。
第2章 社会に出て、勉強を始めたきっかけは“皮肉”だった
大学を卒業してから就職したのは、一般企業でした。
安定とは言えないけれど、仕事に就けたことに少し安堵していました。
でも、現実は甘くありませんでした。
入社してわずか3、4ヶ月。毎日が苦痛でした。
労働環境は過酷で、仕事内容も合わず、何より「これが自分の人生か」と思うと、虚しさがこみ上げてきました。
そんなある日、同僚にこう言われました。
「そんなに現状を変えたいなら、勉強したら?」
彼にとっては、多分ただの“あしらい”だったのでしょう。
何の努力もせずに文句を言っている私に腹を立てていたのかもしれません。
でも、当時の私にはその言葉が深く突き刺さった。
悔しさ、焦り、情けなさ――いろんな感情が混ざり合い、「変わらなければ」と本気で思った瞬間でした。
そして私は会社を辞め、1年半のフリーター生活に入りました。
バイトして勉強をする。そんな毎日。
初めて心から「自分の人生のために」学びました。
やがて、その努力は少しだけ報われ、大学院への進学が決まりました。
ここが私にとって、人生で初めて“自分の意思で前進した”場所だったかもしれません。
高校をやり直しても、大学に入っても、ずっと自分に自信がなかった。
でもこの時ばかりは、自分の手でドアを開けた感覚があったのです。
第3章 前半:大学院での英語地獄と、藁にもすがったフルブライト奨学金
大学院は、自分の力で切り拓いた初めての道でした。
フリーター生活を経て、必死に勉強して勝ち取った進学。心のどこかで「これでようやくまともになれる」と思っていたのかもしれません。
でも、その幻想はすぐに打ち砕かれました。
入学してすぐに受けたTOEICのスコアは――400点台。
信じられませんでした。まわりの学部生たちはもっと高いスコアを叩き出していた。
「自分は大学院生のレベルにない」ことを突きつけられた瞬間でした。
そこから、私は完全にスイッチが入りました。
削れるものは全て削り、毎日ギリギリまで英語の勉強。
朝から晩まで、英単語帳と文法書にかじりついた。
でも、伸びない。まわりの学部生は楽しそうに勉強して、どんどん伸びていく。
私は必死なのに、遅れていく一方。焦りが自分を食い尽くしていくのがわかりました。
誰かに馬鹿にされたわけでもないのに俯きながらキャンパスを歩く日が増えました。
特に学部生とすれ違う時は強烈な劣等感に襲われました。
そんな日が続いても勉強には手を抜きませんでした。
劣等感が大きくなるほど勉強量が増えていきました。
そして、約1年半後にはTOEIC800点、英検準一級を取得しました。
でも――話せない。スコアはある。でも口が動かない。耳が追いつかない。
「この程度の英語力じゃ、全然だめだ」
だから、どうしても海外の空気を吸いたかった。
なんとかして留学できないか。お金がないなら、奨学金だ。
「留学 無料」とネットで検索し、一番上に出てきたのが「フルブライト奨学金」でした。
名前すら知らなかったけれど、藁にもすがる想いで応募。
膨大な申請書、面接、準備。すべてを英語で。
地獄のように大変だったけれど、私は合格した。道が開けた。
嬉しかった。でも同時に、不安で震えました。
「通じなかったらどうしよう」「友達ができなかったら?」
それでも、私は海を渡った。自分の可能性を信じるために。
第3章 後半:発音で撃沈、引きこもり寸前の私を救ったのは“飲みに行こうぜ”だった
アメリカに降り立った私は、最初の一言から撃沈しました。
自分の発音が全く通じなかったのです。
クラスでも、買い物でも「what?」と聞き返され続ける毎日。
自分の英語が通じないという経験は、想像以上に心を削ります。
やがて、誰とも話したくなくなった。
部屋にこもるようになった。
「せっかく来たのに、何をしているんだ」
そう思う一方で、外に出る勇気もなくなっていきました。
そんなとき、私を救ってくれたのが、陽気なメキシコ人でした。
私が弱音を吐いたとき、彼はこう言いました。
「英語なんか通じなくてもいいじゃん。そんなことより飲みに行こうぜ!」
そのひと言が、私の世界を変えました。
彼は毎晩のように私をBarに連れ出してくれました。
最初は戸惑いながらも、酒と笑いと人の温かさに触れるうちに、私はだんだん「伝わらなくてもいい」と思えるようになっていきました。
ある夜、カウンターで隣にいたおじさんにこう言われました。
「Janglish(日本人の英語)は、世界で一番難解な言語だな。ハッハッハ」
昔の私なら凹んでいた。でもその時は笑って返せた。
「そうかもな」って。
それを機に、「じゃあ発音を少しでもよくしてやろう」と勉強を再開しました。
シャドーイングを毎日繰り返した。
ところが、ある日衝撃的な出来事が起きます。
履修していた授業の教授から、突然メールで呼び出されました。
研究室に入ると、教授は一言。
「君は授業の内容をほぼ理解できていない。ドロップアウトしなさい。」
正直、何も聞き取れていなかったのは自覚していました。
“OK”とだけ言って、部屋を出ました。
それからはいろんな授業に出てみましたが、ほとんどついていけませんでした。
それでも、社会学の授業だけはしがみついて最後まで残り、なんとかB評価を取りました。
私の留学プランでは2つの授業を履修できましたが、私の力で取れたのはこの1つだけでした。
でも、不思議と悔しさはありませんでした。
あれだけ通じなかった英語を、少しは話せるようになった。
笑われても気にせず話す勇気が持てるようになった。
何より、人との距離を、自分の言葉で縮められるようになったことが嬉しかった。
ちなみに、私のフルブライト留学プランはほとんど費用がかかりませんでした。
往復の航空券、授業料、学生寮、週20食のミールプラン、さらにお小遣い毎月550ドル。
日本語の授業を手伝うことで毎月300ドルの収入もありました。
Barに通ったり、遊びに行ったり、色々使ったはずなのに、帰国時には35万円ほど残っていました。
お金の話も大事です。
なぜならこの経験を通じて、「やりたいことは、工夫すれば叶う」と実感できたからです。

第4章:教壇に立ち続けて見えた「学力」と「夢」の不思議な関係
大学院を出て、私は再び教室に戻った。今度は“教える側”として。
英語教師として、13年間、いくつもの学校を渡り歩いた。
偏差値40未満から70以上まで――あらゆる層の高校に勤務した。
偏差値72の進学校では、東大の過去問を持った生徒から質問を受け、答えられなかった。
その生徒は、嫌味でもなく、まるで事実を読み上げるかのようにこう言った。
「先生って…地方の国立大レベルですよね。」
衝撃だった。さすが偏差値72。ディスり方がエレガント。
言っておくが地方の国立大って一般的には高いレベルにあるからな。
まあ君はそう思わないんだろうけど。
(※東大か国立医学部じゃなきゃ負け組という雰囲気があった)
一方で、偏差値40の学校ではまったく別の意味で衝撃を受けた。
ある日、授業中に生徒と口論になり、顔と顔の距離が鼻先で触れそうになるまで接近された。
「殺すぞ」
そう凄まれた。さすがに身の危険を感じたが、どこかで「これはこれでドラマだな」と冷静に考えていた自分がいた。
そんな極端な両極での経験の中で、私はある“妙な逆転”に気づいた。
偏差値が高い学校ほど、「大学に行かなければならない」という意識が強い。そもそも「行かない」とう選択肢が最初からない。将来の夢が「大学の偏差値」で決まるように感じている生徒も多かった。
一方で、進学率の低い学校では、
- 「アイドルになりたい」
- 「声優になりたい」
- 「芸人になりたい」
- 「歌手になりたい」
- 「漫画家になりたい」
- 「自分の店を持ちたい」
そんな、“自分の内から出てきた夢”を語る生徒が多かった。
私は、高校時代にそんなふうに何かを心から望んだことがなかった。
ただ、なんとなく進学し、なんとなく働き、なんとなく生きてきた。
だからこそ、彼らが語る「夢」には、シンプルに尊敬の念を抱いた。
「自分は何者になりたいか」と真剣に向き合っているその姿勢に、私は胸を打たれた。
この頃から、心のどこかで感じていたのかもしれない。
― もしかして、自分は“夢の見つけ方”を伝えたいのかもしれない。
でもそれは未だに夢を見つけられていない自分にとって、不可能な領域だった。
第5章 教師を辞めることにした3つの理由
13年間、高校で英語を教えてきました。
その中でたくさんの生徒と出会い、たくさんの授業をしてきました。
それなりにやりがいも感じていましたし、「このまま定年まで続けるのかな」と思っていた時期も確かにありました。
理由①:「生徒に語った言葉」が自分を追い詰めた
私は、生徒にこう教えていました。
- 将来が不安なら、色んな道を探せ
- 無理に大学に行かなくてもいい
- 自分に合った環境や働き方を見つけよう
でも、自分はどうだろう?
毎年ほぼ同じカリキュラム、同じテスト範囲、同じ成績処理…。
真面目に続けてはいるけれど、それが「自分に合った仕事」なのかと問われると、答えに詰まりました。
言葉と行動の矛盾。
それが、私をじわじわと内側から壊し始めていました。
理由②:AIが教師の“価値”を問い直す時代に入った
ChatGPTが登場し、世界が一変しました。
英語の質問に完璧な答えを返してくるAI。しかも何度聞いても疲れないし、文句も言わない。
― 正直、自分が教えていることの大半は、もうAIで済むのでは?
そう思ってしまったのです。
もちろん、人間にしかできないこともあります。
でも、その“人間にしかできない価値”を、私はこの先も出し続けられる自信がありませんでした。
そして何より――AIと何かを創り出す側に立ちたいと思った。
「奪われる側」ではなく、「使う側」に立ってみたい。
この変化の波に、自分から飛び込んでみたかった。
理由③:妻の病気が、「待つな」と教えてくれた
実はこの頃、妻が大きな病気を患いました。
もともと私は、退職金をもらったら2人で世界一周旅行に行こうと夢見ていました。
でも、その「いつか」が突然「もう間に合わないかもしれない」に変わったのです。
― 人生は、待ってくれない。
だったら、定年まで安定を貯め込むのではなく、
今、人生を変える選択をするべきなんじゃないか?
そうして私は決意しました。
周囲には「公務員を辞めるなんてもったいない」と言われました。
でも、それは私の人生を知らない人の言葉です。
私は私のために――
次のステージへ進むと決めたのです。
第6章 AIでアプリを作った。1800時間、その果てに
教師を辞めた私は、すぐに明確な目標を持って動けたわけではありません。
むしろ、そこからの半年は迷走の連続でした。
ドローンの免許を取ってみたり、
起業の勉強会に参加してみたり、
ビジネス書、哲学書、教育論、人工知能関連…とにかく本を読んで、動き続けていました。
「何か見つけなければ」
「とにかく行動しなければ」
そんな焦りばかりが、頭の中で膨らんでいました。
株でも失敗した
実はその頃、株にも手を出していました。
勉強しながら、少額からコツコツ投資を始め、1年ほどで100万円以上の利益が出ていました。
「自分にも金融のセンスがあるかもしれない」と思っていた矢先――
2024年夏、株価が暴落しました。
あれよあれよという間に、200万円以上が吹き飛びました。
どれだけ本を読んでも、リスクを分散しても、感情を排除しても、
相場の波は簡単にそれを飲み込んでいきました。
それを機に、私は株の勉強を完全にやめました。
「金を増やすことが目的になったら、心が壊れる」
そう実感したからです。
生き方としての「投資」ではなく、生き方そのものをつくる活動をしたい。
そう思うようになりました。
そして、AIとアプリに賭けてみようと思った
迷走し、失い、焦り続けた半年。
でもその中で、自分の中に少しずつ芽生えていた感覚がありました。
「AIはこれから、世界を変える」
「どうせなら“使われる側”ではなく、“使う側”になろう」
AIに興味があった。
将来性も感じていた。
自分の人生を変えるには、今、何かを創るしかない。
だから私は決めました。
AIと一緒に、アプリをつくろう。
1000時間かけてアプリをつくった
プログラミングの知識はゼロ。
ChatGPTに質問しながら、一つずつコードを組み上げていきました。
思ったように動かない。
バグが出ても原因がわからない。
「これで正解なのか」さえ判断できない。
それでも、諦めずに続けました。
毎日が孤独で、しんどかったけれど、辞めようとは思わなかった。
自分の意思で選んだ道だからこそ、やり切れたのだと思います。
気づけば、1000時間が経っていました。
完成した瞬間、特別な感動はありませんでした。
ただ、「一区切り」。それだけです。
さらに800時間、HPを作りながら見えてきたもの
次に私は、アプリの世界観を支えるWebサイト(HP)を作り始めました。
これも、AIと二人三脚。アンドロイド用アプリのコードとウェブ用のコードが違うのをここで知り絶望。
途中で何度も心が折れそうになりながら、さらに800時間を費やしました。
そして気づいたのです。
このサイトには、過去の自分の痛みが詰まっている。
迷いも、焦りも、失敗も、そこから立ち直った小さなきっかけも――
だからこそ、これは“誰かを救える場所”になれるかもしれない。
1800時間という時間は、金額にもスキルにも換算できない。
でもその中に、**人生を変えるだけの“濃度”**は、たしかにあったと思っています。
ぜひ一度HPを覗いてみて下さい⇒1800時間ホームページ
第7章 このHPで救いたいのは、“あの頃の自分”
私がこのサイトをつくった理由は、収益のためだけではありません。
(もちろん生活のために収益化は大切だけれど)
本質的には、「あの頃の自分」を救いたい――それがメインです。
救いたいのは、1人ではない。「毎年の自分」だ
私の人生は、ずっと「わからない」の連続でした。
- 高校を中退したとき
- 高校で4年間も勉強したのに、偏差値30台の大学にしか行けなかったとき
- 適当に就職活動をしているとき
- 大学卒業後、すぐに仕事を辞めてしまったとき
- 教壇に立ちながら、生徒の夢と自分の空虚さを比較してしまったとき
- 教員を辞めた後、迷走し続けた半年間
これらはすべて、その年、その瞬間の「わからない自分」が存在していた時間です。
だから私は、「過去のどの年の自分」にもこのHPを見せたい。
1回ではきっと伝わらない。
何度でも、継続的に、
「今のお前で大丈夫だよ。でも、本当の自分の声を聞いてみてくれ」と、優しく語りかけるような場を用意したかった。
自分を理解すれば、人生の“解像度”が上がる
かつての私は、何をやっても手応えがなくて、自信もなくて、なんとなく生きていた。
でも今は、「自分を理解する」ことがいかに強力かを知っています。
- 自分がどういう時に感情が動くか
- どういう環境で力を出せるのか
- 誰といると疲れて、誰といると楽か
- 何に反発を覚えて、何にワクワクするか
そういった**“内なる設計図”**を把握すればするほど、人生の地図は鮮明になります。
進むべき方向が見える。
迷っても立ち止まらずに済む。
他人の目や世間の価値観に振り回されずに、軸を持って歩ける。
そして何より、「自分の人生を好きになれる」。
自分を責めていた、かつての私に言いたい
「もっと自分を理解しろ」
それだけで、見える世界はまったく変わる。
自分の内側を知るだけで、努力は目的地に向かって加速していく。
今あなたが持っている不安や迷いは、無能だからではない。不明確なまま走っているからです。
だから、止まってもいい。立ち止まってもいい。
でも、その間にやってほしいのは、
“自分の取扱説明書”をつくること。
それが、このHPの目的であり、私の過去へのささやかな恩返しです。
第8章 あなたへ ― モヤモヤの正体は、あなたが悪いんじゃない
もし今、あなたがモヤモヤしているなら――
- 「将来が見えない」
- 「何か始めたいけど、何をすればいいのかわからない」
- 「頑張ってるのに、うまくいかない」
- 「まわりの人が羨ましくて、自分が情けなくなる」
- 「諦めの感情が強い」
そんな感情を抱えているなら、伝えたいことがあります。
それは、あなたが悪いわけじゃない。
世の中が与えてくる“正解”が多すぎるんです。
「大学に行け」「就職しろ」「資格を取れ」「英語は必須」――
何かをやらなければ不安になるように仕組まれた社会で、
**「本当の自分は何がしたいのか」**に目を向ける余裕がない。
あなたの人生の主役は、あなたです
大人になればなるほど、人生の“選択肢”は減っていくように感じます。
でも実は逆です。
**「自分を理解すればするほど、選択肢は広がっていく」**んです。
まずは、あなたの“取扱説明書”をつくることから
このHPには、「自分を知るためのツール」として、
日記、質問、選択肢、アバター、診断、仮想世界、…いろいろな仕掛けを用意しています。
難しいことは何一つありません。
ただ、「自分のことを観察してみる」だけです。
どういうときに嬉しいと感じた?
何をしているときに、時間を忘れる?
誰の言葉にイラッとした?
それって、自分にとって何が大事だから?
こういった答えを一つひとつ拾っていくうちに、
“なんとなく生きてきた人生”が、“自分の意思で進む道”に変わっていくはずです。
最後に
私もずっと迷ってきました。
高校を辞め、大学で落ちこぼれ、何度も自信をなくして、努力が報われないこともたくさんあって――
それでも、自分を知ろうとしたことだけは裏切らなかった。
だから、もしあなたがこれから何かを始めたいと思うなら、
誰かに相談する前に、ネットで検索する前に、
「自分の声」をまず聞いてあげてください。
この場所が、あなたの声に出会うきっかけになれば幸いです。
そして、いつかあなた自身が、誰かの“道しるべ”になれますように。
そして――妻へ
最後に、これだけはどうしても書き残しておきたいことがあります。
私が教員を辞めると決めたとき、
収入も保証もなく、将来が見えない道へと進むことになったとき、
文句ひとつ言わずに受け入れてくれた人がいます。
妻です。
生活が不安定になっても、私の決断を信じてくれました。
迷走していた半年間、方向性も収益もなかった時期ですら、責めることはありませんでした。
不安だったと思います。それでも、背中を押し続けてくれました。
だから私は、あなたと生きる未来に胸を張れるような人生をつくりたい。
そしていつか、必ず約束を果たしたいと思っています。
「一緒に世界を見に行こう」――あの言葉を、本当に叶えるために。
ありがとう。
これからも、よろしくお願いします。
ご支援のお願い
私のHPは「自分が本当に望んでいる生き方って何だろう?」と悩んできた、かつての自分を救うために生まれました。
同じように立ち止まっている人が、ほんの少しでも前に進むきっかけになれるよう、日々改善・運営を続けています。
この取り組みに共感していただけた方へ、お願いがあります。
よろしければ、活動の継続と拡充のためにご支援いただけないでしょうか。
いただいたご支援は、アプリやコンテンツの開発、サーバー維持費、関連書籍の購入などに使わせていただきます。
一緒に、「自分を知って、生き方を選べる人」を増やしていきませんか?
ホームページはこちら→夢の中のたまご
コメント